半年くらい前に展示していた作品に思うところがあったのでご紹介です。
菅原白龍(すがわらはくりゅう・1833~1898)は羽前国西置賜郡時庭村(山形県)の人で、名は元道、家は代々修験者で白龍山梵林院の神職であったといい、号はここからきているようです。
幼少から画が好きで、生活のために上京しますがあまり売れず、帰国しようと思ったところで奥原晴湖に非凡な画家と認められたことで決意を新たにしたといいます。
白龍の画は当初は中国絵画に心酔していましたので、伝統的に描かれてきたものを学んで描いていたようです。
しかし白龍が「革命家」とか「独自の画風」を為したと紹介されるのは、そこにとどまらず、一転して手のひらを返したことによります。
すなわちやむを得ざることゆえに神官の仕事をすることになり「大和魂」に目覚めます。
夢にも見ない海外の風景ばかり描いて、すぐそこにある日本の山水を描かないのをどうして誰も疑問に思わないのかと、日本のいい風景を紹介した『日本勝景』という自著で慨嘆しています。
紹介文というのはいくらでも長くなってしまうので、本題の画について見ましょう。
まず全体を見て目に飛び込んできたのは逆L字型に配された大きな山と渓流の姿です。
手前からかなりの密度を持って描かれておりどこか息苦しさにも似た緊張感を与えて迫ってきます。
迫力を出しすぎたせいか、上へいく道の途中が見えません。
ちょうど人が立っている真横から登っていくとするとそこからほぼ垂直に登山しなければいけなさそうです。
墨の調子は全体的に水を含ませ階調を変えながら塗られています。
流れる滝を見る人物はやたらとスタイルがよく見えますが、両者ともほぼ正確に八頭身あります。どうりで。
四阿のあるスペースに立つ木はやけに枝葉が偏っていて風にでも吹かれているのかと思いきや本当にただ偏っているだけであり、辛い形をしています。
誰が剪定したんですか。
ところで奥の方には数艘の舟がとまっている漁村らしき風景が見えます。
白龍の弟子であった寺崎広業は、近くを密に、遠くを疎に描くことや遠近による形そのものの大きさの変化について教えられたが、それは西洋画の透視遠近法や陰影をつける方法と同じでありながら、白龍のそれは独自の写実的な態度から自然と生まれてきたものだといいます。
なるほどそう思えば、手前の山と奥の漁村の風景が遠近であるのと同時に、地上の風景の中でも手前と奥で建物の大きさへの意識や墨の濃さに意を配していることにも気づかされます。
賛
風煙消俗慮
水石養幽田
此裏移壮了
長生必可期
款記
明治十八年五月下澣
併題白龍山人
印
「藤原元道之印」
「白龍」
「籠天地於形内挫萬物於筆端」
(頭の中に浮かぶことばで言い切れないほどの無限の天地(アイデア)を、筆先から紡がれる文章によって表現する)
絖本
たて糸とよこ糸の交差を減らすことで光沢が感じられるようになります。
たて糸が表に出ている面積が大きく、よこ糸が目立たないのがわかります。
交互に織られていないということです。
明治以降の日本では、今もそうかもしれませんが日本画よりも西洋画のほうが注目を集めつつあり、特に南画は粗製乱造が過ぎたせいで「つくね芋山水」という蔑称が生まれるほど評判が落ち込んでいました。
白龍という人はそれまでの南画に対する考え方や方法論について転換を試みようとしましたがそれは自らの愛する画がより生きながらえることをもくろんだものでもあったのかもしれません。
川端玉章らとともに「東洋絵画会」を結成したり、美術月刊誌『東洋絵画叢誌』(『國華』より5年はやい!)創刊にかかわるなど日本画の普及発展に大きな労を取っています。
しかし大正末期にはすでに「餘り重んぜられてはゐないらしい」ことになっていたようであり、白龍の作品に芸術性が足りなかったためか、画論の価値が至らなかったのか、はたまた世間が見落としたのか。
日本美術史上のひとこまとして感じ入るものがあります。
なお白龍の活躍は東京を拠点としていたためか当館には本点しか所蔵が確認されていません。
参考
ウィキペディア「菅原白龍」
ウィキペディアには間違いがたくさんあるのであまり信じてはいけません。しかし参考になります。
菅原白龍『日本勝景』1893。
本間久雄『近代芸術論序説』文省社、1925。
どちらも国立国会図書館オンラインで部屋に居ながらにして読めます。
『白龍瑣談』や白龍の展覧会図録も見てみたかったのですが、すぐに入手できなかったので参照しておりません。本記事はいつも通り不良な安楽椅子調査によりお届けしています。
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