歴史・沿革

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連綿と受け継がれてきた
塩づくりとポリシー

創業者の武左衛門は塩田開発を行うかたわら、邸宅の建築にも力を入れました。それらは一代にして塩田161町歩と、大庄屋の雄大な屋敷地として結実しました。

野﨑家は残された財産を野﨑家に伝わるポリシーによって決して毀損することなく維持拡大に努めてきました。塩づくりは現在ナイカイ塩業が引き続き行っており、国の重文、県の史跡にもなった広大な屋敷地を公益財団法人竜王会館が管理しています。連綿と受け継がれた歴史をこれからもつないでいきます。

沿革

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文政12年(1829)

野﨑武左衛門、児島に入浜式塩田を築造

天保9年(1838)

野﨑家の長屋門・御成門が完成

嘉永5年(1852)

野﨑家の表書院が完成

文久3年(1863)

旧野﨑浜灯明台が完成

明治23年(1890)

野﨑武吉郎が貴族院議員に選出される

明治27年(1894)

野﨑武左衛門の顕彰碑『野﨑武左衛門翁旌徳碑』を建立

明治29年(1896)

野﨑家別邸迨暇堂が完成

明治41年(1908)

児島商船学校が武吉郎の還暦記念の寄附により設立される

昭和9年(1934)

野﨑家個人経営を改め、株式会社野﨑事務所を設立

昭和21年(1946)

株式会社野﨑事務所を内海塩業株式会社に社名変更

昭和45年(1970)

財団法人竜王会館を設立

昭和49年(1974)

旧野﨑浜灯明台が倉敷市重要文化財の指定を受ける

昭和49年(1974)

内海塩業株式会社をナイカイ塩業株式会社に社名変更

昭和52年(1977)

野﨑家旧宅が岡山県の史跡に指定される

昭和56年(1981)

『備前児島野﨑家の研究-ナイカイ塩業株式会社成立史-』を刊行

昭和60年(1985)

『元野﨑浜風土記』を刊行

昭和62年(1987)

野﨑家旧宅の一般公開をはじめる

平成3年(1991)

『児島塩業史年表』を刊行

平成7年(1995)

野﨑家塩業歴史館として博物館登録される

平成9年(1997)

岡蔵を第2展示館に改装

平成16年(2004)

野﨑武左衛門翁旌徳碑が国有形文化財建造物に登録される

平成17年(2005)

財団法人竜王会館が特定公益増進法人の認可を受ける

平成18年(2006)

『野﨑家旧宅調査報告書』を刊行

平成18年(2006)

旧野﨑家住宅が国の重要文化財に指定される

平成19年(2007)

『小西増太郎・トルストイ・野﨑武吉郎-交情の軌跡』を刊行

平成22年(2010)

入館者100万人達成

平成22年(2010)

『野﨑台湾塩行の研究-近代日本塩業・台湾塩業-』を刊行

平成23年(2011)

財団法人竜王会館が公益財団法人竜王会館に移行

平成24年(2012)

岡山県立美術館にて「塩田王野﨑家 ゆかりの人と作品」が開催され、展示図録を刊行

平成25年(2013)

岡山県立美術館にて「塩田王野﨑家 個性集う地方サロン」が開催され、展示図録を刊行

平成25年(2013)

所蔵品の錦莞莚座蒲団が倉敷市重要文化財の指定を受ける

平成27年(2015)

金沢能楽美術館にて「塩田王の雅び心」が開催され、展示図録を刊行

平成29年(2017)

国立能楽堂にて「野﨑家能楽コレクション」が開催され、展示図録を刊行

平成29年(2017)

日本遺産「一輪の綿花から始まる倉敷物語」の構成文化財に認定される

平成30年(2018)

日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間」の構成文化財に認定される

 
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入浜式塩田

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御成門

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野﨑武左衛門翁旌徳碑

 

塩づくりの歴史

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岩塩資源のない我が国では、大昔から塩は海水を原料として作られてきました。
創業者野﨑武左衛門は、晴天日数が多く、干満の差の大きい瀬戸内海の自然の利を活かして、倉敷市児島の地に入浜式(いりはましき)塩田を築造しました。
入浜式塩田は、干満の差を利用して引き入れた海水を毛細管現象で砂の表面にしみ出させ、鹹水(かんすい…濃い塩水)を採る方法で、江戸時代初期から昭和20年代まで続けられました。

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元野﨑浜

武左衛門は文政12年(1829)現在の倉敷市児島に約48ヘクタールの元野﨑浜を完成させました。
塩田は2ヘクタール程度の広さを「一塩戸」(「一浜」「一軒前」とも呼ばれる)とした独立した作業単位に分かれていて、元野﨑浜は24塩戸に分かれていました。

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東野﨑浜

武左衛門の干拓意欲はさらに児島半島東部に注がれ、天保12年(1841)に現在の玉野市山田地区に約74ヘクタール、文久3年(1863)に胸上地区に約20ヘクタールの塩田を開発し、両浜を併せて東野﨑浜と称しました。

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入浜式塩田法

塩田は満潮時の海面より低く、干潮時の海面より高くなるように造られていました。塩田の土質は10~15cmの厚みの撒砂又はそれによく似た粘質のある砂の上層の上に、撒砂(さんしゃ)が置かれ、この撒砂を動かすことによりかん鹹水を作りました。

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浜引き

撒砂を混ぜ返して、まんべんなく湿らしておくために浜引きを行っていました。浜引きには何種類かの引き方があり、蒸発作用の効率を上げるために、上浜子がそのときどきの状況を判断して浜引きの引き方を変えるように指示していました。

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寄せ子

塩の付着した撒砂を沼井の回りに寄せる作業をする人を寄せ子と呼びました。寄せ子は女性で、一浜に4人いました。実労働時間2時間のこの浜仕事は主婦にとって手頃な副業でした。

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浜子

寄せ子によって押し寄せられた、塩の付着した撒砂を浜子が沼井の中に放り込み、足で踏みつけ、海水を注ぎ込むと、撒砂を漉して、鹹水が採れました。これらの作業を総称して、採鹹(さいかん)と言いました。

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流下式塩田法

昭和20年代後半より、我が国の塩田は段階的に流下式塩田に転換しました。
流下式は、ポンプで汲み上げた海水を、ゆるやかな傾斜をつけた流下盤へ流し、竹の小枝を組み合わせて作った「枝条架(しじょうか)」の上部へ送り、下部へ滴らせます。これを繰り返すことによって、太陽熱と風力を最大限に利用し、鹹水を採る方式です。
これにより入浜式に比べると生産量は3倍に、労働力は10分の1に軽減され、大幅な生産性の向上が図られました。

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膜濃縮製塩法

昭和44年(1969)、東野﨑浜に膜濃縮製塩工場が完成します。膜濃縮製塩法では交換膜が汚染物を通さないため、海水から安全で効率的に、塩をつくり出すことができます。


穏やかな海と多くの島々が点在する美しい瀬戸内海。長年、塩の生産に寄与した元野﨑浜の塩田跡地は、昭和63年(1988)の瀬戸大橋開通によって生まれ変わりました。