もう一つの左義長図と藤井松林 from 福山の美術

ご覧になりました?

「福山の美術」会期も折り返して残り1か月です。

こちら藤井松林の「福山左義長図」です。

すばらしいですよね。

小槌と鼠の飾りに焦点が合っているようで、手前で踊っている人物群から奥の方へ向かって遠ざかり段々ぼやけていきます。

本作は戊子年(1888年)、松林65歳の時に描かれました。

ねずみ年だから?

あるいは小槌を持つ大黒天の使いが鼠であるからかもしれません。

中央にはお金持ちなご主人と派手な女性が特等席でお祭りを眺めています。


そしてこちら。

別アングルです。(展示してません)

描かれたのは同じく明治21年(1888)。

見比べていただくとどこを切り取ったものかおわかりでしょう。

橋の上です。

こちらの方が人々の生き生きとした表情がより見られます。

綱を引いている人は苦悶の表情ですが。


いずれにしても人々の愉快な姿態や家々が密集する様子、

そして奥にそびえる福山城の威容が伝わってきます。

今年で福山城はリニューアルされ、なにやら現代の私たちは誰も見たことのない黒い鉄板を装備した姿になるという話ですが、描かれた福山城も少し不思議な部分があり、天守閣最上階に黒い覆いのようなものがめぐらされているようです。明治28年には広島県から福山町へと管轄が移譲され、修理が進められたとのことで、昭和10年の写真の姿にも残っています。これは高欄付の廻縁で、天守閣の最上階に登った時に、縁側みたいなところを歩いた経験はありませんか。落ちないように手すりもついています。しかしあの縁側みたいなところは雨風にさらされることで耐久性に難点があります。そのため、かどうかは存じませんが、廻縁が板で囲われ斜めの跳ね上げ戸をつける構造となっていました。本作にもその姿が反映されているのでしょう。(参考:広島城歴史博物館・福山城博物館『福山の歴史』p.14、2007年。)

ちなみに本作は明治天皇もご覧の品です。


明治二十七年十月於広島大本営供天覧

そしてさらに。

『松林画集』より「左義長図」

松林はどこからこのお祭りを眺めているんだろうと疑問ですが、明治25年、69歳の時の作です。当時、阿部伯爵家所蔵で、額装されており縦が約54.5㎝、横が約121.2㎝という横長です。白黒でよくわかりませんね。

カラーで見たい方は、福山城博物館より発行の『藤井松林』をご入手ください。ご指摘により気づきましたが(2022年7月1日修正)、驚くことにそれらは一見すると同じに見えますが微妙に差異があります。阿部家には少なくとも同様の品が2つあったということでしょうか。残念ながら白黒の方は行方不明のようですね。


以上3つの「福山左義長図」でしたが、今さら福山の左義長について述べておきましょう。先に訂正しなければいけないことがありまして、福山左義長(とんど祭り)が築城と同じく400年だと私が吹聴している気がしますが、1622年に初代城主水野勝成氏が入城したお祝いに、その年ではなく、翌年から始まったとされているようです。400年は来年か?

ただ例のごとく怠惰故、文献調査不足しておりまして、根拠が見つけられていませんのでよくわかりません。

寝ながら見られる国立国会図書館デジタルコレクションにて触れているものがありましたので、そのまま引用しときます。


福山の左義長は日本全国諸種の歳時中最も有名なるものなりしが、維新以後は殆ど廃絶の姿となり、国家大典の際たまたま賑はしとして催すことあれど、電線に故障の為特に其形を変じて山車やうの小形のものを造るに過ぎざればもとより以前のおもかげを伝へざるものなり。そもそも左義長は、三毬打又三木張など書し、其さかんに燃え上る音よりトンドとも呼べり、其起原は詳かならざれど、古来朝廷にて毎年正月十五日と十八日の両夜に清涼殿庭にて行はれし儀式にして、青竹を束ねて之を飾り、扇子短冊など結び、陰陽師等をして謡ひ囃して燃さしめしものなり、其型支那の爆竹と略同じ、歳時記に元日爆竹於庭、以辟山臊山臊悪鬼也(※庭で爆竹ならして悪い鬼を追い払う)。神異経に犯人則病、畏爆竹声(※人を犯す病は爆竹の音を嫌う)とあり、此等の系統を引けるものか、室町時代以後は民間一般に行はれ、江戸時代に至りては萬治、寛文頃より、火災のおそれあるを以て禁制し、都会の地には早く絶えしが福山のみは明治維新後までも其儀残存し独り左義長の名をほしいままにせり。
(広島県農会『芸備新風土記』pp.36-37、1938年。)

※は私です。

上記も濱本鶴賓氏の文章を採用したものらしいので孫引きです。

福山の左義長は「徳川時代よりの習しにて藩主阿部氏時代には一際盛んであつた」(同上書p.36)ということで、いつとは書いてくれません。

面白いのは明治になって電線に引っかかるから小型化されたというので現代にも通じる悩みですね。


まだまだ記事は続くよどこまでも。


藤井松林を知っている人が一体どれだけいるでしょうか。

当時中央画壇で活躍していた人たちに劣る処はないように思えます。

管見なる私から述べるのは甚だ恐縮ではありますが、本邦美術史にその名が刻まれているとは言い難いのではあるまいか>_<

松林先生がいかに素晴らしかったか、追薦会の皆様の労作よりご紹介しましょう。


当館所蔵の「松林畫(画)集」です。

本書は大正2年(1913)5月4日、

門弟及び同志者たちが松林先生の為に20周年追薦会を催すのにはじまります。

このとき展示された作品は数百点といい、本画集はそこから選抜し、しかし松林は一代で数千(!)の作があるため、先生のすべての傑作、妙技を示せたわけではないと言います。

序や跋に参加した人たちも豪華なので見ておきましょう。

長くなりますので頑張りましょう。


まず上の題字は天保13年、阿部家邸内で生まれ、福山藩に仕え、明治以後は沼隈・深津・深安郡の三郡長となり、30年間郡長を務めたのち阿部家家令を懇請され、阿部家三代に仕えた岡田吉顕(従五位勲五等)です。


流芳千歳

泰山題

「沈重」「土方久元」「泰山」


題字その1

千年にわたりその名声を伝える。

開いてまずこの言葉と字です。

わくわくがとまりません。

内閣書記官長(今でいう内閣官房長官)、元老院議官、宮中顧問官、農商務大臣、宮内大臣、枢密顧問官を歴任した土方久元(正二位勲一等伯爵)の書です。

萬古清風

成海

「光風霽月」「成海」「隆一」


題字その2

永遠に清らかな風が吹いている。

臨時全国宝物取調委員長、宮中顧問官、帝国博物館(現・東京国立博物館)総長を歴任し、また最初の民間博物館である三田博物館創始者の九鬼隆一(正二位勲一等男爵)の書です。


序「娯老」 明治二十七年琢扈 大纛在芸城為福山人某伝献其応藩士藤井松林翁画幅 上嘉納之余亦獲其稲雀図筆致精美洵可愛玩也此年翁以七十一歳没時翁幼善画手甫十四さゐ藩侯

所激賞後出游京師従中嶋来章而学同門幸野梅嶺川端玉章推為先進然翁終生在僻郷名声遂不若二氏云曽献自画賜物後又奉 命描游鯉及百福図人栄之今蔵五月当翁二十年祭郷人胥謀修祭典蒐其遺墨新写印刷製一巻将公諸遣以彰其妙技無遜彼?兼表追慕之誠介人主席余嘉其挙有補於期過為題一言 大正二年 正三位勲一等股野琢 「琢字子玉」「藍田」

そして序文を帝室博物館(帝国博物館から改称)初代総長の股野琢(正三位勲一等)が書いています。

たまに1文字分スペースがありますが、これは天皇のようなビッグな方へのリスペクトです。

さてこの序文には興味深いところがあります。

明治27年は日清戦争が起こり、現在の広島城内に大本営が置かれました。明治天皇がそこにおわしたのです。股野琢は当時宮内省に所属していましたので同地にいたのでしょう。先ほど紹介した野﨑家所蔵の左義長図もここでご叡覧となりました。この序文内では、福山人某が藤井松林の画幅を献上し、お上が嘉(よろこ)んで納められた、そしてその画を牧野琢は入手したと言います。稲に雀が描かれており、まことに愛玩すべき品で、松林71歳という最後の年の作としています。



『松林画集』(大正2年)より。股野琢所蔵

この年の1月18日に亡くなっていますが、最後に絵筆をとっていたのでしょうか。

本作はもちろん『松林画集』に含まれていますが、別の本にも紹介されていました。


『円山四条派画集 下』聚精堂、大正元年。 股野多美之助所蔵。国立国会図書館デジタルオンラインより

股野多美之助牧野琢の長男です。

出版はこちらの方が早いのになぜか長男の所蔵ということになっています。

今どこにあるんでしょう。

ちなみにこの本では「殊に雀を善くし、人松林の雀といふ」とあり、雀に定評があったということになっています。


標題と序文はここまでで、あとは編者による説明です。

松林伝が大変に詳しいので公開しておきます。

松林が気になって仕方ない方は大いに参考にしてください。




始まりの部分だけではまだ紹介は終わりません。

跋文も二本立てです。



一人目は江戸学問所文学助教に18歳で就任して以来、教職生活55年という漢学の先生で、藤井松林の親友である門田重長です。跋文の中で、酒の席ではいつも松林が席画を行い、自分は詩歌をつくり、冗談を言い合いながら笑っていたのだと親友エピソードを披露しています。


最後は大和敬直という人ですが、詳細は不明で学者や書家のような人かと思います。

松林は粗末な薄い衣服を身に着けて左右に画具、前後に茶器を置いた部屋の中でぐるぐるしていたがその家にもう松林はいない…。


序の方では偉人カードをこれでもかとぶつけてきて、跋では親友たちが松林を偲ぶという大変な愛にあふれた画集であると言えましょう。これだけのものが出来上がるということが福山の誇るべき画人であることをまた示しているのです。


ちなみに写真が傾いてますが、この本すごい硬いんです。

完全に開くと本が傷むのでなるべく開かないように撮ったのでこんな感じです。

展示しなかったのも開いておけないからです。


最後に、藤井松林の辞世の句で終わりましょう。

『松林画集』

世の中の 人ちふひとの なす事を なさずばやまじ 山猿の身も

おのれ若かりしをり かく思ひしに ただ老の数のみ重ねきつれば 猶おもひつらねてよめる

七にひとつ 七し得で今は 七七十に 七れども七どか 七さでやむべき


これを訳す無粋を承知でやりましょう。


この作は松林が亡くなる1年前、70歳で書かれています。

自分の人生を振り返っているのは明らかです。

まずは「山猿」がポイントです。画もそうですし。

山の中に住むサルは田舎者です。結果として松林は生涯をほとんど福山で過ごすことになり、家族や弟子を大切に生きてきたわけですが、実力からすれば中島来章に学び、幸野楳嶺川端玉章といった同門より先に立っていたと言います。しかし名声は江戸や京都に住む二人には及びませんでした。現代でも近代日本画に興味がある方なら二人の名前は聞いたことがあっても、藤井松林の名までは出てこないでしょう。松林も若いときは、実力のある自分が田舎の山猿で終わるつもりはなく、人としての名を立てたいと思っていたのでしょう。為すべきことが為せないままに月日は過ぎていき、今では70歳になってしまった。

「七」は全部「な」と読みます。

気づきましたか。

「七」は7回登場しています。

なれども、などか、なさでやむべき。

このまま終われるかっ。


辞世の句にするつもりはなかったようです。


福山市制75周年の展覧会、90周年のとんど図復刻が企画されてきた通り、藤井松林は福山を代表する絵師です。今回は野﨑家の所蔵品と共に紹介いたしました。当館所蔵の松林作品は推せると確信するものであり、まとめてお披露目したのは初めてです。左義長だけでなくほかにも展示中です。華族の人々も所蔵していたようですから、まだ見つかっていない作品はあるのではないでしょうか。さらなる調査の進展が期待されます。


参考文献

福山市立福山城博物館『福山市制七十五周年 福山城博物館開館二十五周年記念特別展 藤井松林』平成3年。

wikipediaほか(笑)

 

福山の美術

福山城築城400年アニバーサリー!

令和4年 4月7日(木)~6月19日(日)

開館時間/9:00~16:30(17:00閉門)

休館日 /月曜日 

場  所:旧野﨑家住宅 倉敷市児島味野1-11-19

展 示 数:24件

入館料等:大人/500円 小中学生/300円

※小中学生および高校生は、毎週土曜日・日曜日・祝日は無料です。

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