岩塩資源のない我が国では、大昔から塩は海水を原料として作られてきました。
 当社の創業者は、文政12年(1829年)晴天日数が多く、干満の差の大きい瀬戸内海の自然の利を活かして、倉敷市児島の地に入浜式(いりはましき)塩田を構築しました。
 入浜式塩田は、干満の差を利用して引き入れた海水を毛細管現象で砂の表面にしみ出させ、鹹水(かんすい…濃い塩水)を採る方法で、江戸時代初期から昭和20年代まで続けられました。
 その後、は児島半島南岸に広大な塩田開発を進め、全国の製塩業者の中心的な役割を果たしました。

     

は文政12年(1829年)倉敷市児島にを併せて48町9反の広さのを完成させました。
 塩田は2町程度の広さを「一塩戸」(「一浜」「一軒前」とも言いました)とした独立した作業単位に分かれていて、は16塩戸、は8塩戸に分かれていました。
     

の干拓意欲はさらに東児島に注がれ、天保12年(1841年)に山田塩田73町9反、文久3年(1863年)に胸上塩田19町8反を完成させ、両浜を併せてと称しました。現在、製塩工場のあるところです。
明治27年に、の所有する耕作地は488町歩、塩田は181町歩に及んでいました。
塩田は満潮時の海面より低く、干潮時の海面より高くなるように造られていました。塩田の土質は10〜15cmの厚みの撒砂又はそれによく似た粘質のある砂の上層の上に、撒砂が置かれ、この撒砂を動かすことにより鹹水(濃い塩水)を作りました。
   浜引き

撒砂を混ぜ返して、まんべんなく湿らしておくために浜引きを行っていました。浜引きには何種類かの引き方があり、蒸発作用の効率を上げるために、上浜子がそのときどきの状況を判断して浜引きの引き方を変えるように指示していました。
   寄せ子

塩のまぶれた撒砂を沼井の回りに寄せる作業をする人を寄せ子と呼びました。寄せ子は女性で、一浜に大体4人いました。実労働時間2時間のこの浜仕事は主婦にとって手頃な内職でした。
   浜子

寄せ子によって押し寄せられた、塩のまぶれた撒砂を浜子が沼井の中に放り込み、足で踏みつけ、海水を注ぎ込むと、撒砂を漉して、鹹水が採れました。これらの作業を総称して、採鹹(さいかん)と言いました。
   流下式塩田

 昭和20年代後半、我が国の塩田は全面的に「流下式塩田」に転換しました。
 砂を動かして鹹水をとるのが入浜式、海水を動かして鹹水をとるのが流下式の製塩法です。流下式は、竹の小枝を組み合わせて作られた「枝条架(しじょうか)」へポンプで汲み上げた海水を流し、また、ゆるやかな傾斜をつけた粘土盤の塩田に滴下させます。これを繰り返すことによって、太陽熱と風力を最大限に利用し、鹹水を採る方式です。

 当社では昭和6年頃、すでに枝条架による濃縮方法を考案し、昭和19年には当社番田塩田に流下式の試験塩田を設置し、枝条架に斜層貫流塩田を結合する方法を開発しました。その後の流下式塩田法の全面的導入の基礎を作りました。
 これにより入浜式に比べると生産量は3倍に、労働力は10分の1に軽減され、大幅な生産性の向上が図られました。
 現在の膜濃縮製塩法に変わるまで、このような農耕的な塩田製塩によって塩づくりを行ってきました。
穏やかな海と多くの島々が点在する美しい瀬戸内海。長年、塩の生産に寄与した(倉敷市児島)の塩田跡地は、昭和63年の瀬戸大橋開通によって生まれ変わりました。